プロフィール
小坂 さとみプロフィール
立憲民主党 未来立憲民主ちば HP
- 1962年生まれ
- 京都府立網野高等学校卒業
- 職歴:都ホテル(京都)勤務、3年のカナダ留学を経て起業(製造業・IT)
- 趣味:トライアスロン(年代別優勝5回)、登山、旅(中南米をバックパック一つで3ヶ月)
- これまでに取り組んだ市民活動:里山保全、国際交流
豊富な海外経験と語学力を活かし、様々な起業や社会活動を行ってきました。稲毛区柏台でコミュニティビジネスとして「街の駅オークヒル」経営に参加のかたわら、50歳でトライアスロンを始め、年代別優勝5回。トレイルランやウルトラマラソンの他、登山やテニス、ゴルフもプレイします。
政治家になった理由
選挙は、3か月後、今から、立憲から次の候補をどうやって見つけるか?時間がない、、という状況。ある友人から、小坂が適任では?という声があった。
地元の田嶋要代議士から小坂へのオファーを頂く。
小坂が生きてきた人生、社会を見る視点を、政治を通して生かすことを考えたら?という言葉に心が動き、お話を頂き1時間で出馬を決めた。
与えられた時間は、3カ月。
挑戦・未来開拓・自分を信じて諦めない、人生の過程で培ったもの全てを投入し選挙に挑んた。そして3位当選をさせて頂いた。神様が、導いてくださった私の次の生き方は、政治家として社会に貢献すること。その使命を、誠実に果たして行きたい。
小坂さとみってどんな人?
性格
好奇心旺盛・過去を振り返らない・未来への開拓に興味あり
好奇心:広い世界を見ることを実践してきた
・高校卒業後に選んだ職業:京都都ホテル(現在ウエスティンホテル)
→お金を頂きながら、社交界を見つつ、マナーを学べる場であると選択した
・京都祇園バンケット・ホステス
→ホテルよりも身近に社交界を感じる場、京都で一番の社交場を選択した
・カナダへ単身在住
→もっと広い世界を見たいと片道エアーチケットで日本を飛び立った結果、3年カナダに滞在。
両親は、何も言わなかったのか?
⇒すべて自分の意思で行動した。両親には事後連絡。アンタのする事とは、理解できひんわ!といつも言われていた。親戚・ご近所さんに説明できひんから実家には帰ってこんといて、と言われたこともあり。
挑戦・・・そして達成するために考え続けた
1)仲間と共に起業
業務用清掃マシンの企画・設計・製造・メンテ会社を設立。
製造部門はカナダに。支店の立ち上げの為1年滞在する。
以前、カナダ滞在した際の仲間が力を貸してくれた。
2)ビジネスプランコンテスト入賞 <以下、ふたつのコンテストに入賞>
- MIT(マサチューセッツ工科大学)日本人卒業生が企画するビジネスプランコンテストで入賞
- 中小企業基盤機構全国ビジネスモデルコンテスト → コンテスト応募要件は、事業計画の提出。
当時の私は、事業計画・パワーポイント共に初めての挑戦だった。しかし、ベンチャー起業家として、このコンテストで認められたら、社会に認知される機会になるのでは?と思でやり遂げ、結果、入賞できた。
3)50歳で始めたトライアスロン
仲間と夜飲んだ時の勢いでトライアスロンの練習を経験してみよう!と、朝6時スタートのレッスンに参加した。
恐ろしく辛い練習だったが、3カ月続けてみようと決めた。
練習以上に辛いのは、朝6時スタートのレッスンに参加すること。
自転車移動なので、冬は暗いし寒い!
休んでも誰も責めない、自分の意思だけで3カ月やり遂げることへの挑戦だった。
年代別優勝5回達成。
→いいえ、子どもの頃の運動会は、いつもビリ。逆上がりができず母に叱られながら練習。学校主催のマラソン大会は出場したことがありません。
→丹後ウルトラマラソンに参加した際、母曰く、子どもの頃にマラソンなんてしたことないアンタが、なんでおばはんになってから、しかも、ウルトラマラソンを走るんや???
<トライアスロンで自分が変わったことは?>
こんなにしんどい練習に耐えた、そして年代別優勝をさせてもらった私は、この先、自分の人生にどんな苦労が訪れても、必ずそれを乗り越える自分がいると信じることができた。
挫折
起業してからの道のりは、厳しかった。資金面・人間関係・・・
・起業した仲間と離れて個人で仕事を始めた
この仕事も、挫折に終わった。
5つ程の仕事を掛け持ちでやったが、貯金は底をつき、自己破産を考えるところまで追い詰められた。
スポーツを通して培った精神の強さと自分を信じること。
自然の摂理の下で、そして感謝の気持ちを忘れない
私の破天荒の人生は、恐らく、多くの人を傷つけたことだろうと思う。その反省の姿勢を込めて、自然を大切にする様になった。
畑を耕し、雑草や生ごみからたい肥を作り、それを畑に戻して野菜を育てる循環型農業。地球に存在する全ての生き物は、この循環の下で命を頂いていることを実感する。
生かされていることに感謝し、そして自分以外の生き物の存在も尊重する気持ちが湧いてきた。
地元や地産地消に拘る理由
3.11東日本大震災は、私の人生を大きく変えた日だった。
当時、私は、千葉市稲毛区「街のえきオークヒル」という地域コミュニティ施設が仕事場だった。3.11の影響で大手スーパーは流通ストップの為、営業できず。しかし、私たちは、地元農家さんからの流通があったのでお店を開けることができた。
オークヒルで食が買えると、多くの人が開店前から待機してくださった。また、当時、都内勤務の人から、地元で仕事をしたいと、うちに仕事を求めてきた。
地元の繋がりや地元に生きる為の食や仕事があることの大切さを実感する。
家族
私の母は寺に生まれたが事情があり養女に出された。よって、一緒に暮らした祖父祖母は、血のつながらない人。父は、婿養子で家に入ったので、血のつながらない人たちが家族として住んでいた。
子どもの頃の記憶は、祖父母と両親が不仲、まじめにサラリーマンをする父、そして、貧しかった我が家を支えるために、朝起きてから寝るまで機織りの仕事をする母の姿、多分、父以上に母は稼いだと思うが母は父の帰宅後、唯一好物のお酒は欠かさなかった。
7つ年上の姉は、家族を支えるために、私とその下の妹のリーダーとなり、両親を支えた。
マンガ本は贅沢品、妹は、絵にかいたピアノの鍵盤を弾いて歌を歌っていた。3人娘のいる家庭ながら、お雛祭りに飾られるお雛様は我が家にはなかった。ないものをいつか、自分が大人になったら自分の力で手に入れよう、と思っていた。
なかったから、努力する心が育まれたという点で貧しかった子どもの頃に今は、感謝する。
公開日:
最終更新日:2024/03/23